名誉院長エッセイ

若くみえるのはいいこと? ですよね

若いなあ

2年ぶりの来院です。『先生! 久しぶりじゃのぉ。ありゃあ先生、白髪が増えたのォ。どがいしたんぞ。ストレスが多いんじゃろのぉ。』「○○さんは、若いねえ。75には見えんぞね。」実際に、その患者さんは見た目60代前半にみえるのです。「調子は良さそうじゃけど、なんかええことがあったんかな。」『わしはのお、ついこのあいだ、ひ孫がでけてのお。まだ、長生きせにゃあいかんわい。ははは。』なるほど、普段から若くみえる上に、嬉しいことが重なってますます元気をもらったんですね(*^_^*)。

他にも…

がんをはじめとして、消耗性の疾患では、見た目、実際の年齢より年を取ってみえることが多いのですが、外来に通っている患者さんの中には、実年齢よりもかなり若くみえる方がいらっしゃいます。うち一人は、60代後半の女性ですが、どう見ても40代にみえるのです。物腰もそうですが、皮膚のしっとり感もしかりなのです。これは、色目で見てるのでは無くて、医学的に見てるのですよ。誤解なきように(^_^;)私なんぞ、だんだんと皮脂や皮膚の水分が少なくなって、いつもかさかさなのに…
初診の患者さんで、失言したことがあります。「どうぞお入りください。」女性が二人入ってきました。「今日はおねえさんといっしょですか?」『いえ、母です。』「えっ…失礼しました。お若いですねえ。」診察忘れて、一盛り上がりです。診察時間が普段の2倍近くかかりました(-_-;)

私は昔から…

私は、高校の時からおっさん顔で、実年齢よりも上に見られていました。大学時代のエピソードがあります。入学してから2年くらいたったころです。ある同級生が、私が現役で入ったことをしり、『栗田! おまえ、わし(医学生とはいえいろいろな言葉遣いがありました)より年下じゃったんかぁ。今の今まで、年上じゃと思うとった。』彼は、2浪だったのですが…当時は白髪など無かったのですが、白髪がちらほらし出してからは、どんどん増えていきました。娘に、一度聞いたんです。「染めてみようか?」”染めん方がいい!”この一言で、成り行きに任せることに決定。でも、白髪で年齢を感じることは正直言ってなかったなあ。年齢を感じだしたのは、眉毛に白いものが混じってきたことと、ビヨーンと長い眉毛が生えてきたことですね(^_^;)。これを読んでいる中には思い当たる人がいるでしょう!

同年代のタレントも多いです

私は、65才ですが、同じ年頃の役者さん、タレントさんは、数多くいます。さだまさしさん、志村けんさん、三浦友和さん、山下真司さん、阿川泰子さん、ビートたけしさん、小林薫さん、モト冬樹さん、等々たくさんいますよ。テレビの画面で見るだけですが、皆さんとても若々しいですよね。そうでなくっちゃファンが離れていくものね。相当気を配っているのだと思います。
実は、わたしも、若い時は年がいってみられていましたが、今は若くみえると言われます(~o~)。仕事を続けているからでしょうね。ありがたいことです。

皆さんもいつまでも若々しく!

先ほども書きましたが、私は、65才になり、このエッセイが出た頃には、院長の職を辞しています。この号をもって、筆を置きたいと思います。見直してみると、つたない文章ですねぇ…m(_ _)m長年にわたり掲載できたのも皆さんの応援のおかげです。ありがとうございました。

もう一度、皆さん、いつまでも若々しく!

名誉院長 栗田 啓

気のせいかなあ・・

先生!再発しとりゃせんかのお

ある日の外来。胃がんで胃の3分の2を切り取った方です。『せんせえ、傷のところがじくじく痛いんじゃが、再発でもしとりゃせんかのお』「傷が痛いんじゃったら中とは関係ないと思うがなあ。心配なら検査してみようかねえ」血液検査、CT、胃カメラなど一通りしましたが再発の所見はありませんでした。「やっぱり再発はなかったですよ。あまり痛いようなら、痛み止めを出しましょうかね」『いや、それを聞いたら治ったような気がするけんええわ。気のせいじゃったんかいのお』外来を後にする姿が、心なしか気恥ずかしそうでした(*^_^*)

そういえば自分も

今では、胃がんの大きな原因としてピロリ菌の感染があることはよく知れ渡りましたね。そのことが学会で話題になった頃、胃のあたりがなにやらむかむかするのです。また、胃がもたれて、胃の中に何か貯まったようなポチャポチャ音がし出したのです。こりゃあ大変だ。胃がんができて幽門狭窄(胃の出口ががんなどで狭くなって食物が通りにくくなることです)になっとるんじゃなかろうか。。この際、胃カメラを受けとこう。知り合いのドクターに診てもらいました。答えは「きれいな胃ですね。ストレスなんかなさそうで、ピロリ菌もいないようですよ」ほっとしたのは言うまでもありませんが、ストレスなんかなさそうで、は余分だろう(-_-;)
こんなこともありました。術後の患者さんから、まぶたがぴくぴくすると相談されたことがありました。頭の中にまぶたの筋肉を動かす神経と血管が交差するところがあって、血管が神経を圧迫して筋肉の痙攣を起こすことがあるのです。結局、知り合いの脳神経外科医へ紹介して手術してもらい、治ったことがありました。そのころです。私のまぶたもぴくぴくし出したのです。ありゃ、人ごとじゃあないぞ。自分もその仲間か。。。それは、程度が軽かったのでしばらくほおっておくと、いつの間にやら収まっていました。

そういえば学生時代にも

胸腺腫という、縦隔(胸の中で左右の肺に囲まれた心臓などがある真ん中の部分のことです)にできる腫瘍があります。時に、食道を圧迫して嚥下困難を来すことがあるのですが、学生時代に、その講義が終わったころからものを飲み込みにくくなったような気がし出したのです。意を決して、大学病院のドクターに相談し、食道、胃の透視をしてもらいました。結局何事もなく、担当の医師からはもろ岡山弁で『おめえ、ぼっけえ心配性じゃのお。気にせられな』
重症筋無力症という、筋肉の力が抜けていく病気がありますが、病気の講義を受けた頃から、左の親指の付け根の筋肉がぴくぴくし出したのです。この病気の始まりの症状とそっくりだったので、内心とても心配しました。検査を受けようかこのまま様子を見ようか迷っていましたが、そのうち症状はなくなってしまいました。同時に、病気の知識も無くなったように思いますが_(_^_)_
思い出すとまだまだありますが、恥ずかしいのでこれまでにしましょう。

心配性??

手術のあと、ちょっとした出来事にびくびくしながら生活することがあるのはよくわかります。その都度相談してくださいね。答えは、多くの場合「何いっとるん。手術のあとはそんなこともあるじゃろう」でしょうが。。。でも、その訴えこそ大事なのですよ。何かが潜んでいるかもしれませんからね。内容によっては、詳しく検査しますからね。その選択は、医者の能力でしょうが(言いすぎかな)

実は

私が、ひょうひょうと診察しているように、また何事にも動じないように思えますか?実は、いろいろな悩み?を抱えているのです。多くは、空振りですがね(^_^;)

あらあら、これを書いている間に、なんだかまぶたがぴくぴく・・・

院長 栗田 啓

おばけ先生

「おばけ先生やな」

院長回診の時のお話です、1ヶ月に2病棟ずつですが、院内の病棟を私、院長が回診しています。1年に3巡りすることになります。
ある病棟での院長回診の時、「こんにちは。院長の栗田ですが、体の調子はどうですか」患者さん曰く、『あっ、お化け先生やな』「えっ?」あ、そうか。そういえば、がんセンターニュースに、病院に現れた?妖怪のこと、我が家に住む座敷わらしのことを書いたのでした。読んでくださってるんだなあ。感激でした。あれから時間もたちました。新築当時からいた我が家の座敷わらしもいつの間にか音沙汰がなくなり、どうやら出ていったようです(-_-;)そのせいでしょうか、夫婦二人とも病気がちになり、体のあちこちが痛くて疲れやすくなってしましました。えっ?年のせいだって‥うーん、そうかなあ…そこで、今、住み込みの座敷わらしを募集中なのです(*^_^*)

身の回りにはいろんな妖怪話があるのですよ

うちの奥さんの仕事仲間の子どもさんが、よく『お母さん。階段に座ってるお兄ちゃんとお話ししていい?』と言うのだそうです。お母さんには見えるはずもなく、最初はどきっとしたらしいのですが、実際、お話しているんだそうです(^_^;)おおこわっ。いつものことなので、ほうっておいたそうですが、子どもさんが成長するにつれて言わなくなったそうです。
もと(今も?)女優の安田成美さんは、ご自分が子供の頃、机の引き出しの中に”こびとさん”がいたんだそうです。いっしょに遊んでいたそうですが、これもいつのまにかいなくなったそうです。
私の孫娘も、時々不可解な行動をすることがあるのです。昨年のハロウィンの時、南瓜の絵が描かれてあるキャンディの包み紙をじっと見つめて、なにかお話しをしているようなのです。近所のスーパーに行っても南瓜のディスプレーを探して、なにか確認をしているようでした。じーじ(私です(^-^))が前向き抱っこして、スーパーの中を命令されるがままに行き来するのです。たぶん、そのスーパーでは名物(どちらかと言えば迷惑かな)になっていてたと思います(^_^;)。ハロウィンが過ぎて、南瓜がなくなると、何かさみしそうでしたね…どういうわけか女の子ばっかりですね。こんな不思議エピソードの持ち主は。

小説や映画にも

浅田次郎さんの小説「鉄道員(ぽっぽや)」は、不思議だけど素敵なお話ですね。映画だと「ゴースト/ニューヨークの幻」でしょうか。一度死んだものが、相方を愛するあまり現世にもどってくるお話です。皆さんは、ただのフィクションだと思っていませんか?私もその一人ではあるのですが、こんなお話があります。
水木しげるさんの妖怪事典にこんな文章があります。ある雨の日に、亡くなった奥さんが、夫を心配するあまりこの世に現れて、なにかと身の回りの世話をしたというのです。帰りに(どこへ帰ったんでしょう(^^;))傘を忘れて帰ったそうで、東北地方のあるお寺に、大正時代までその傘がおいてあったそうです。どこのお寺かは書いてありませんでした。でも、なんとも言えずロマンチックなお話ですね。その傘、見たかったなあ。

心の中に何かがあるのでしょうね

誤解のないように言っておきますが、私自身は幽霊や妖怪の存在は信じていません。我が家の”座敷わらし”も女房殿と娘が、いる(今はいないので、”いた”が正しい?)と言うのです。あまたの妖怪伝説、少し昔で言えば”遠野物語”や、現在では”山怪”に出てくる奇怪なお話なんぞを読んでいると、私たちの心の中にある、抗いようのない力に対する畏怖の念が、妖怪や幽霊を作り出したと思うのです。でも、おおっぴらには言えません。ここだけの話にしておきましょう。いると信じて疑わない人たちもいるのですから。

院長 栗田 啓

手術後の訓練です!?

先生!うち、スイミングスクールに通い出したんよ

乳がん手術後の患者さんです。ある日の外来で、「今日は一段と顔つきが明るいねぇ」『先生、そうなんよ。2ヶ月前からスイミングスクールへ通い出したんよ。水に入ると身体が軽なって、やせたようで気分もええんよ』どうやら、乳がん術後の上肢の運動と体力作り目的で通い出したようです。以前、胃がんの手術後にテニススクールに通うのが生き甲斐になっている、あるおばちゃんのお話しを書きました。あの時は、目的の一つがイケメンコーチがいるからだったので、運動の目的は本来の体力作りプラスアルファでしたが、この方は純粋に手術後のリハビリのためのようです(*^_^*)。浮力がかかるためか体が軽くなって腕を動かしやすいとのことです。

医学的にも評価されていますよ

リハビリテーションにプールでの歩行を取り入れているプログラムもありますよね。浮力がかかって体重の不可が低くなるので、膝をはじめとした関節への負担が減るのです。一方、水中訓練は宇宙飛行士の訓練の一つとして組み入れられているとも聞いています。なんでも、NASAには長さ100メートル、深さ10メートルくらいの巨大なプールがあるそうです。この中で、宇宙服に見立てた服を着て訓練をするそうですが、リハビリの状況とは全く異なっていて、ものすごい体力を消耗する訓練らしいです(^^;)。あと、詳しくはwebで(どこかで聞いたような文句だなあ‥)

子供の頃、田舎でよく泳いでいました

小学生の頃、夏休みになると母の里へ行くのが毎年の楽しみでした。昼寝が済んで、さあ、泳ぎに行こうっと!いとこと何人か連れだって、山を少し下ったところにある淵で泳いでいました(母の里は、山の中腹にありました)。水中眼鏡が一つしかなくて、交替でかけては潜ってました。とても小さな淵だったけど、よく飽きなかったなあ。。今思うと、不思議ですね。小さな頃は、同じことを繰り返しても飽きませんでしたね。皆さんもそうではありませんでしたか。
時には、4キロほど歩いて、肱川で泳ぐこともありました。中流にあたるのですが、川の中程は流れが速くて、一度、流されてパニックになった覚えがあります。死ぬかと思った思い出がいまだに脳にこびりついています(-_-;)。今でも川で泳ぐのはちょっとためらうなあ…
そうそう、湧き水がとても冷たいのです。母の実家の勝手口を出たところに山からの湧水をためるところがあって、よく朝採ってきたスイカを冷やしていました。顔などもそこで洗っていました。そこには沢ガニがたくさんいて、焼いて食べたような記憶があります。美味しかったなあ。医者になってから思うのですが、生食していたら寄生虫が宿っていたかも(^_^;)
小学生高学年の頃だったように記憶していますが、ある夏に、山の斜面に湧水を利用したプールが作られたのです。長さはせいぜい10mくらいだったでしょうか。でも、水が冷たすぎて夏でも長いことは泳いでいられなかった。「陽ちゃん(いとこの名前)、あっちで泳ごう!」もっぱら、あの淵で泳ぐ毎日でした。

訓練の効果は?

さて、あの患者さんのその後はと言うと、ある日の外来で見せてくれました。「プールの効果はどうなったの?」『先生、だいぶん動くようになったよ!ほら』と、これでもかと言わんばかりに腕をぶんぶん動かして見せてくれました。「そ、そこまでしなくてもいいよ…」聞くと、とても残念なことがあるのだそうです。『若い男の子が一人もおらんのがいかんわいっ』「…」
結局こうきたか…でも頑張ってね!

院長 栗田 啓

お酒がうまいんでやめられんのよ

先生、ビールがなんぼでも飲めるんじゃが、かまんのかいの

この40才代の男性は胃を全摘しているのですが、なぜかビールがたくさん飲めるのです。それも、500mlの缶ビールを4、5本も飲めるらしい。発泡性のある飲物は飲めなくなるのが胃を切除した患者さんの宿命なのですが、まれのまれにこのような患者さんがいらっしゃいます。術前のお話しの時『わしゃ、胃を切ったら大好きなビールが飲めんようになるのだけがつらい』とおっしゃられていたことが印象に残っていたのですが、うれしい誤算でした。でもひと言、「いくら飲めるとは言ってもね、胃がないとアルコールの吸収が前とは違うけん飲み過ぎたらいかんよ。肝臓を痛めるけんね、ほどほどにね」と釘を刺しておきましたが、なかなか言うことが聞いてくれません。そのうち、外来での血液検査で、肝機能が悪くなり、「まーだ飲んどるじゃろう。がんは治っても、肝臓で死ぬよ!」『は,はいっ!』この脅し? が一番効くようですが、効かない人もいるんですね、これが(^_^;)

酒が弱うなってしもうた!

多くの患者さんは、胃を切ったあとには、こうため息をつかれます。今まで美味しかった酒がまずくなったと言われる方もいらっしゃいますね。そこで、してやったりとそばでにんまりとしているのが、誰あろう奥さんです。(皆が皆そうではありませんが、だいたいそうですね)よほど苦労してたんでしょうか…胃を切ったあと、飲んでもかまいません。ほどほどに飲めば、百薬の長ですからね。ただ、問題なのは歯止めが効かなくなることがあり得ることです。「うんうん」そこでうなずいているのは、ご本人かそれとも奥さん?

私はと言えば

私もお酒は好きですよ。一人で飲むより、大勢の中で飲んで話を楽しむのが好きなので、家飲みはほとんどしません。ただ、美味しい日本酒が手に入ったときだけは別です。その時には、「冬ソナ」を見て、ため息をつきながら冷酒をちびりちびりと飲むのです。「ええなあ‥チェ・ジウって何でこんなにかわいいんやろう。このドラマはなんでこんなにせつないんやろう…」なんてね(*^_^*)今は翌日がしんどいので夜更かしすることはなくなりましたが、最盛期?には朝、2時3時はざらでした。翌日大丈夫かって?それが絶好調なのです(^_^)v

酒にまつわる思い出をもう一つ

岡山大学にいた頃の話です。数ヶ月の単位で近隣の病院への出張がありました。中でも、湯原温泉病院への出張中には、事務の人とよく飲んでました。あの冬はとても寒くて、朝起きると、官舎の前に雪が積もって玄関のドアが開かないのです。窓から出入りしていました。最高なのは、官舎の風呂が源泉掛け流しなのです!!しかーし、官舎の風呂ではなく、雪の中を湯原ダムの下の露天風呂までみんなで連れ立って行くのです。片道15分くらいだったかなあ。行きは、寒くて寒くて、でも露天風呂につかったあとは本当にぽっかぽかでした。病院に帰り着いてもさめてないのです。その後に飲むんです!当時はウィスキーが好きでしたから、安いスコッチを買い込んでみんなと飲むのです。病院の庭木に雪が積もっているのですが、ウィスキーの水割りを作るのに、窓を開けては手の届くところにあるその雪をつかっていました。ただ、正直言って美味しくはなかったなあ。今から30年以上前のことです。今では雪に混じっているちりやPM2.5を心配しなくてはいけませんね(-_-;)

話をもどしましょう

今までに一人だけ、患者さんと飲みに行ったことがありました。友人としてです。その方はある会社の取締役のかたでした。いつもにこやかで温厚、考え方もしっかりとしていて、話していて飽きないし、会社のこと、世の中のこと、家族のことなど話しました。私と職業が違ったのもよく話せた一因かもしれませんね。彼のがんは、手術時にはすでに進行していて、ほどなく再発してしまいました。彼は、自分の命が限られていることを冷静に受け止められました。心に葛藤が無かったはずはないと思いますが、少なくとも私とのお話しからは、感じられませんでした。私がその立場になったときに、果たして彼のような立ち居振る舞いができるだろうか‥そんな思いでいるうちに、彼は天に召されました。静かな最後でした。その時から私は患者さんと飲食をともにすることをやめました。

寒さも和らぎ、夜空を見上げる機会もでてきました。
遠き人を北斗の杓で掬わんか  橘高薫風

院長 栗田 啓

優雅な生活だなあ

先生、来週からカナダへいくんよ…

おばあちゃん、年に何回もお友達と旅行に出かけます。九州あり、北海道あり、東北あり、海外へも時々出かけます。『来週は山陰へ蟹を食べに行くんよ』「そんなにいろんなところへ行っていたらお金がかかってたいへんでしょう」『保険金が毎月たくさんおりるんで使わんといかんのよ』「えっ?…」なんでも、若い頃には商売が順調だったらしく、おつきあいで生命保険にたくさん入っていたのが、今になって払い戻されているらしいのです。額を聞いて驚いたのですが…皆さんには内緒です(*^_^*)。

もうひとりいます!

まだいらっしゃいますよ。この方、やはりバブルの頃に生命保険をたくさんかけていて、今その払戻金をどうやって使おうかと思案しているのだそうです。この方は、仲の良い雀友と日本中を駆け巡っています。その間に、外来へ来る感覚ですね(ちょっとおおげさかな…)。外来では、波照間島へ行って釣りが面白かったとか、芋焼酎がうまかったとか、うらやましい話で持ちきりです。

私も海外へ

われわれも出張でいろんなところへ出かけますが、仕事ありきなので残念ながら優雅なものではありません。ところで、私がアメリカへ”行きかけた”お話しをします。3歳のときのことです―未遂に終わりましたが…
以前書いたと思いますが、毘沙門坂のロープウェイ乗り場の前に私の生家がありました。まだ、あの坂も舗装されていませんでしたが、車もほとんど通らず、砂ぼこりが舞った記憶はありませんね。もっとも、各家庭がしょっちゅう道路に水撒きをしていたので、そのおかげかもしれません。子供の頃の遊び場はと言えば、お城山と、家の前に会った”ドレメの坂”でした(なぜ、そう言っていたのかわかりません。坂の上に学校があったような。。今の東雲中学・高等学校の前身でしょうか)。そこを三輪車で猛スピードで?こいでおりるのが楽しかったのです。こけるのは日常茶飯事でしたが、一度は上唇を切って、日赤で縫ってもらった記憶があります。けっこう血が出たなあ…今でも名残があります。当時の一番の遠出は、三越の前の電停のところまで三輪車をこいでいった(らしい)ことです。そのことは覚えていないのですが、後日の両親の話では、三越の前で、迷子になって泣いていたところを保護されたらしいのです。たまたま近所の人がいて、「おう、栗田さんとこの坊主じゃ」のひと言で大事にはならなかったとのこと。警察官が自宅まで連れてきてくれたそうですが、泣きながら「アメリカへ行くんじゃ!」と言っていたとのこと。日本広しといえども、三輪車でアメリカ行きをトライする輩はほかにはいないでしょうね。でも、ああ、恥ずかし…

でも、われわれはと言えば…

話を元に戻しましょう。お二人は、バブルの頃にお仕事をしていて、儲かったお金を未来へ”投資”していたのですね。先見の明があったんだなあ!(^ ^)!
今、年金額が減らされる傾向にありますね。また、支給開始年齢も引き上げられています。政府は一億総活躍社会を作るなんて言っていますが、裏には働く年齢を引き上げて、年金への支出を抑えて税金収入を増やしたい意図が見え隠れしますね。ひねた見方かな(^_^;)
でも、働くことを生き甲斐にしている方は確かに多いと思います。私が医者になった40年前よりははるかに多いですね。
二人に一人ががんになる社会です。この気概をくじかないためにも私たちがんセンターのスタッフは頑張っているのです。皆さん、頑張りましょう!そして、われわれが応援しています。

最後に

曝露しましょう!お二人の共通点は、相方は連れて行かない点です(*^_^*)

院長 栗田 啓

母と娘

おかあさん、だんだんぼけてきちゃって…

胃がんで手術してつい最近まで元気だったおばあちゃん、だんだんと認知症が進んできたようです。手術のあと、いつも娘さんといっしょに外来へ通ってきていました。4年たちました。「おばあちゃん、近頃胃の調子はどうですか」『いつもお世話になります。あんばいええですよ』私とお話しするときには、普通に思えるのですが、娘さんの言うことには、あとで思い出せないんだそうです。そして、どうやら私を『なにやらお世話になった人らしい』と感じているので愛想を振りまいているのだとか。ううむ、娘の観察眼たるや厳しいなあ(*^_^*)

もうあずけます!

ある日の外来です。娘さん『先生、もう限界です。施設に預けることにしました』「そうですかぁ。。世話も大変だものね」『いえ、世話はなんとも思わないんですけど、私のことが娘だとわからないみたいで…』「えっ、いつも一緒にいるのに??」『あなた、誰?って言うようになってしまいました』娘さん、気丈な方でしたが、さすがに涙は隠せません。その日は涙の外来になってしまいました。
母親と娘の関係は、特別ですね。うちのかみさんと娘なんぞをみてると、結婚してからもしょっちゅうメールをやりとりするわ、電話でながーーい話をするわ…男から見ると理解できないような関係ですね(^_^;)。それをしょっちゅう目の当たりにしているだけに、この娘さんの、ある意味で悔しい、そしてとても哀しい思いが伝わってきました。

私の親も

私の場合は、母親はずいぶんと前に亡くなったので、父親が問題となりました。85才を超えた頃に慢性硬膜下血腫という病気になってしまいました。頭の骨と脳との間に血液が貯まっていろんな症状が出る病気です。いわゆる独居老人(私の名誉のために言っておきますが、いっしょに住もうと言ってもうんと言わないのです。思い出がつまった我が家から離れたくないんでしょうね)でした。ある日、たまたま大阪に住んでいる妹が帰ってきて、いつもの父と違うと感じ、私に電話をかけてきました。すぐ、脳外科へ連れて行き、頭の中に貯まった血を抜く手術をしてもらいました。息子が危ないから止めろというのも聞かず、よく自転車に乗って動き回っていましたので、どこかでころんで頭を打ったのでしょう。それをきっかけとして、その後もハッキリとしないまま、認知症の症状が進んできたのです。幸い、妹が父のところへ帰ってきて面倒を見てくれることになり、世話を始めました。まあ、いろんなことがおこるものなんですね。妹から聞いたエピソードには、笑いあり、涙ありの連続でした。先ほどの娘さんの話を聞いて、父の私への認識はどんなんだったのかなあと考えてみるに、たまーにやってきて、何かと口うるさく命令ばかりする自分より若いやつ、くらいだったのでしょうか。実は、何年か前に、父の胃の手術を私がしているのですが、父の中ではどう理解されていたのでしょうかね。最初の頃は、もちろん覚えていたでしょうが、認知症が進んだ頃には多分忘れていたのだと思います。その父も今は亡く、ありがとうのひと言も言えないままでした。ただただ心残りです。

認知症の方が増えています

最近、認知症の話題がしょっちゅうテレビ、紙面を賑わせていますね。何でも、65才以上の高齢者(ごめんなさい、一般的にこう言われているもので)のうちで400万人強が認知症だと言われているようです。また、その同数が認知症の前段階にあるんだそうです。
がんセンターの患者さんの中にもいらっしゃいます。看護師さんたち、対応に大忙しです。本人には自覚が無いのですからますます大変!これにはご家族の方々のご協力が欠かせません。安心安全な治療のためにくれぐれもよろしくお願いします。

認知症の早期発見

認知症の早期発見のために、一昨日の晩御飯を思い出せるかどうかと言うことがよく言われます。今、思い出そうとしているのですが…うーん、何だったかなあ…うーん、思い出せないぞ。ん、それよりも昨日の晩ご飯は何だったかな(-_-;)
ところで、皆さんは昨日の晩ご飯を思い出せますか?

院長 栗田 啓

料理の味、診療の味

先生、食べてみて!

ある日の外来です。患者さんの奥さまが、手作りのお味噌を持参です。『ご飯につけて食べると食が進みますよ』早速夕飯時に出番です。「むむ、うまい…」確かにご飯が進みます。ちょっとした酒のあてにもいいなあ。。確かに美味しかったのですが、次の機会にはお断りをしました。何故って、食が進みすぎるのです!これでは、太るのが止められません。心を鬼にしてお断りをしました。あの奥さまがこれを読んでいたなら、あらためて心中をお察し願えればと思うのです_(_^_)_

お袋の味噌作り

そういえば、お袋が作っていたなあ。以前に書いたかとは思いますが、私は、今の毘沙門坂、ちょうどロープウェーの乗り場の前のあたりで産声を上げました。当時は、自宅で産婆さんの元での出産でしたね。それはともかく、当時は、戦後まもないこともあってか、我が家の2階では味噌を作っていました。内子の山奥の出の母はいろいろと手作りをしていたのですが、私の脳に刻まれている最たるものが、味噌なのです。小さな家でしたし、庭もありませんでしたが、なんと2階があったのです。でも、住居用ではなく、主に味噌作り用でしたね。季節になると、あの独特のにおいが充満していたので鮮明な記憶として脳裏に刻みこまれているのでしょう。残念ながら味のほどの記憶はないのですが、その後の私の作る味噌汁の味の原点となっているのではないかと思っています。とは言っても、今では市販のお味噌を使うしかありませんが・・

味の原点?

私の味の記憶と言えば、とても甘いちょっと焦げた卵焼き、大学生時代、帰省が終わり岡山へ発つとき、母と父がいっしょになって必ず作ってくれた巻き寿司、そして小麦粉からルーを作るカレーがダントツですね。一方、今の我が家の味、と言うより私の味はと言えば、具だくさんの味噌汁、酢豚、ロールキャベツ、ぱらぱらにならない―と言うよりぱらぱらにできないチャーハンくらいかなあ…味噌汁には、タマネギ、人参、ジャガイモ、椎茸、豆腐、時に南瓜など入れます。栄養の面でもいいと思うのですが、ある時、娘のひと言で我が思いが打ち砕かれました。『お父さん、旅館で出るような具の少ない味噌汁が食べたい』「…」しばらくは具の少ない味噌汁を作っていましたが、なし崩し的に時々多くして、今では、再び常に具たっぷりです(^-^)そうそう、女房殿の作る味噌汁も具だくさんですよ(*^_^*)

診療にもその人の味がある

診療にもその人となりがあらわれます。私は、食道、胃を中心とした消化管外科が専門です。がんセンターに来るまでは、主に呼吸器外科に携わっていたので、消化管を専門とするにあたって、昔からの先入観に惑わされず自由な考え方をしてこられたと思っています。それを認めてくださったがんセンターの先輩方の懐の広さには頭が下がる思いです。
手術の方法といえば、いろいろな人の手術を見て、手術書を読んで、それを一ひねり二ひねりして一番良いと思ったやり方を編み出してきました。がんセンターで学んだ後輩たちには、今までで一番よいと考えた方法を教えてきたつもりです。でも、私がしてきたと同じように、彼らもまた、自分なりのさらに上を行くすばらしい方法を編み出してくれるのだろうと思っていますし、いやそうでなくてはいけませんね。
後輩たちよ、頑張れえっー!
ところで‥皆さんにはどんな味の記憶がありますか?

院長 栗田 啓

元気なの?それとも無謀!?

それはいきすぎでしょう!

もう25年以上前になりますか、当時80才代のおばあちゃんの乳がんの手術をしました。がんが大きかったこともあり、また、当時は胸の筋肉を残すことはまだ一般的ではなく、乳房とその奥にある筋肉を切り取る手術をしました。手術のあとは、皮膚が胸壁によくくっつくように、にじみ出たリンパ液を体外へ出すドレンという細い管を入れ、手術した側の腕は、数日間は安静にしておくのが一般的です。ところがそのおばあちゃん、翌日の回診時にたまたま廊下で出会ったのですが、なんと、腕をぐるぐると廻しているのです(>_<)。それも半端な廻し方でなくやけくそな感じで廻しているのです。「○×さん!そんなに動かしたら皮がつかんよ!」『そがいにゆうても、手が動かんようになったらいかんけんな、動かしよったんよ』「動かすときになったら、こちらからゆうけん、それまで待って!」ひやひやしながら経過をみていましたが、世の常で、このような患者さんはたいてい順調に経過するものです。おばあちゃんも例外ではありませんでした。

これ、袋の口があいとるよ!

このおばあちゃん、ご主人と若い頃に死別し、子どもさんもなかったのですが、無類の子ども好きで、外来では子どもたちを見つけてはよく遊んでいる姿を見かけたものです。(当時は小児科もあったのですよ)もっとも、子どもが喜んでいたかどうかは…(^_^;)
ある日の外来で、「先生、これ、おいしいけん食べてみてや」『ありがとう!』おばあちゃんの地元の駄菓子のようでした。でもよく見ると、ふうが切ってあるのです。「おばあちゃん、これ口があいとるよ」このおばあちゃん、国鉄(今のJRです)に乗って通院していたのですが、汽車の中でぐずる子どもがいたそうです。『きしなの汽車の中でな、女の子が泣いとったけんちょっとわけてあげたんよ。泣き止んで良かったわい』やさしいおばあちゃんでしょ、それを聞いて納得。残りでも私にあげたかったんだね。だんだん。

それは無茶でしょう!

おばあちゃんだけではありません。元気な、”私たちの立場から言えば”無茶な患者さんに時に出会います。東京のあるがんセンターでの出来事です。アメリカのある大企業の会長さんが、胃を全部切り取る手術を受けたときのことです。術後の経過も良く、多忙な方で、手術から1週間目に退院されたそうですが、お祝いにと大好きなステーキを食べたんだそうです。もちろん医師にだまってこっそりと。全部食べたかどうかは定かではありませんが、このエピソードを聞いた”心豊かな”?医師たちは、おこるどころか、「なあんだ、大丈夫なんだ…」っそれまでは、胃を全部切り取ったあとは、1週間目に水分からはじめ、2日ごとに、流動食、3分粥、5分粥…とあがっていくのが常道でした。
当がんセンターにも強者がいました。この方も胃がんで手術をしました。胃は少し残ってはいたのですが、3日目に、大好きだったのでしょうね、ラーメンを1人前食べたのです。さすがに苦しかったようですし、その後熱も出て、自分の無茶ぶりを反省したようですが、私たち医者はやはり、「なあんだ、大丈夫なんだ…」それからです、胃がんの手術後の食事アップの速度が速まったのは(*^_^*)

医学は、時に患者さんの無茶ぶりから進歩する

今でさえ当たり前になったクリニカルパス―そう、治療の説明や経過を書いたあれです。これは、実は何度も改定されているのです。もちろん、いろんな臨床試験をもとに積み重ねてきた科学的な根拠をもとに変わっていくのが一般的ですが、時に、このような患者さんの行動がもとににあっていることもあるのです。つまり、彼らが、私たちの眼から鱗を落としてくれることもあるのですね。
でも、本心はと言えば、”無茶”はしないほうがいいなあ…

院長 栗田 啓

あっちへ行ったらいかんよ。

先生、だんだん!

がんセンターが堀之内にあった頃、20年以上前のことになります。毎朝の回診の途中、3階西病棟の一室のことでした。
「先生!夕べは大変な夢を見てのう。わしは、小さい舟で広い川を渡りよったんよ。向こう岸にはきれいな花がいっぱい植わっとったわい。ものすごお気持ちよかったわい。ああ、きれいじゃなあ。早う行ってみたいと思いよったら、もとの岸のほうで、『あっちへ行ったらいかんよ。早うもどっておいで』ゆう声が聞こえてのう。わしゃ、はっとしてもとのところへ戻ったんよ。目を開けたら、ここの天井が見えたわい。あぶなかったのお。あの世へ行くところじゃったわい」小生「…」患者さん、続いて曰く「あの声は先生じゃったと思うんよ。だんだん」これを夢と言ってしまえばそれまでですが、同じようなお話しは世界中にありますね。立花 隆さんの”臨死体験”という著書にいろいろな体験談が書いてありますよ。ただ、呼び戻す人は普通は親族の方のようですが…

この部屋は…

堀之内の病院は今はもうないので書きますが、この部屋にはいろんなエピソードがあります。世の中には、いわゆる”霊感”の強い人がいますよね。看護師、医師の中にもいるのです。夜勤の見回りでその部屋の前を通ると、誰もいないはずなのに声が聞こえたり、物音がするというのです。絶対に何かいると言うのですが、よく言えば理知的な、言い方を変えれば鈍感な私には理解できません。その部屋の壁の中に配管が通っていて、そこを流れる水の音だと思うのですが…夢がなさ過ぎですかね(^_^;)。ちなみに、”霊感”の強いこの医師は、(あることで有名な)福井県の東尋坊へ行った時、崖から海をのぞき込むと、無数の人の手が自分のほうへ伸びてきて気が遠くなりそうだったと言っていました(-_-;)。私も行きましたが、のぞき込むとそこには…
きれいな海しか見えませんでした(*^_^*)

我が家にも妖怪が

我が家は建ててからもう20年以上たちますが、建ててまもなくのころから、誰もいないはずの2階から、ミシミシと廊下を歩くような物音が聞こえるのです。「ありゃあ何の音だ?」すると、うちの娘と女房どのが口をそろえて曰く「また、歩いとるねえ」小生「2階には誰もおらんだろう…」2人によると、我が家には、建てた頃から、目には見えないけど、ざしきわらしが住んでいて、時々2階を歩いているのだそう(-_-;)。

新病院でも

医局の男子トイレで、深夜に用を足していたときのこと。用を足した後には、自動的に水が流れるタイプです。途中、フーッと後ろを風が通ったような気がしました。しばらくすると、二つ向こうのトイレの水がざーっと流れたのです…。鳥肌が立ちましたよ。男子トイレは、排出をスムーズにするために一斉に流れることはありますが、1箇所だけだったので、正直怖かったです。それが3回ほどありました。でも、行かないわけにはいかず…壊れていたのかなあ(-_-)。

妖怪って…

妖怪伝説は日本中にありますよね。吉をなすものから災いをもたらすものまでその役割分担はいろいろですが、どこかユーモラスなところがありますね。いるかいないかは別として、幽霊と違うところでしょうか。でも、何人かの人が共通の体験をしていなければ伝説にはなりませんから、人知を超えたなにかが本当にあるのでしょうか。
私は信じない派ですが、みなさんは、どう思いますか?

院長 栗田 啓